かんもん北九州ファンクラブ/かんもん北九州の『名所・旧跡』..........更新:2010年10月20日/開設:2010年10月14日/作成:井撫~一郎

かんもん北九州の『名所・旧跡』

【 北九州市 】

《 T.産業遺産 》

近代化産業遺産は、日本の経済産業省が認定している文化遺産の分類である。2007年11月30日に33件の「近代化産業遺産群」と575件の個々の認定遺産が公表された。さらに2009年2月6日に近代化産業遺産群・続33として、新たに33件の「近代化産業遺産群」と540件の個々の認定遺産が公表された。

@JR門司港駅……国指定重要文化財、経済産業省指定近代化産業遺産/門司港駅は、福岡県北九州市門司区西海岸一丁目にある九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅である。鹿児島本線の起点。関門トンネルが開通するまで九州の鉄道の玄関口であり、対岸の下関駅との間に就航した関門連絡船との連絡中継駅として賑わった。/大正3年竣工、木造駅舎、所在地:門司区西海岸1-5-31

A部埼灯台……部埼灯台(へさきとうだい)は福岡県北九州市門司区企救半島の北東端、瀬戸内海周防灘に面した小高い丘の部埼に立つ石造の大型灯台。大政奉還により江戸幕府最後の年となった慶応3年4月(1867年)、兵庫開港に伴う外国船の安全航行を確保するため、幕府が英国との間で締結した大坂約定(大坂条約)で設置を約束した五カ所の灯台の一つ。明治新政府が事業を引き継ぎ、「灯台の父」と呼ばれるスコットランド人、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、1872年に関門海峡の東・周防灘口の九州側の位置に建設された。現在、関門航路及び門司港の東南端となっている。この灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台で日本の灯台50選にも選ばれている。/明治5年竣工、石造灯台、所在地:門司区白野江部埼

B旧大阪商船門司支店……国登録有形文化財、経済産業省指定近代化産業遺産/大正6年に新築・竣工した社屋は、1階に待合室と税関の派出所、2階に事務所等があった。当時、関門で一番高い八角形の高塔を持つ建物は、華やかな外装とデザインから「ミナトの美貌」と評価され、門司港のランドマークとなっていた。/大正6年竣工、木造(一部コンクリート)、所在地:門司区港町7-18

C旧大連航路待合所……大陸との往来が盛んだった戦前、門司港と中国・大連を結ぶ定期旅客船の国際旅客ターミナルとして使われた建物。国会議事堂を設計した大蔵省営繕管財局の設計により昭和4年に建設され、アール・デコ様式のデザインがモダンな雰囲気を醸し出している/昭和4年竣工、鉄筋コンクリート構造、所在地:門司区西海岸1-3-5

D日本郵船門司支店……1927(昭和2)年、日本郵船が建設した門司における最初のアメリカ式オフィスビル(設計は八島知)。現在の外観に装飾的なものはないが、竣工当時はアールデコ風の装飾が施されていたとされる。内部には暖房、給湯、エレベータなど当時としては最新の設備が備えられた。/昭和2年竣工、鉄筋コンクリート構造、所在地:門司区港町7-8

E旧門司税関……経済産業省指定近代化産業遺産/1912年(明治45年)3月、前々年に焼失した門司税関の2代目の庁舎として建設、1927年(昭和2年)西海岸に3代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成するまで使用された。1995年(平成7年)3月25日に他の施設と共にグランドオープンし、1階は税関常設展示コーナー、エントランスホール、休憩室、喫茶店「レトロカフェ」、展示室、2階はギャラリーと展望室となっている。/大正元年竣工、煉瓦造、所在地:門司区東港町1-24

F旧門司三井倶楽部……国指定重要文化財、経済産業省指定近代化産業遺産/1921年(大正10年)に三井物産門司支店の社交クラブとして建築。接客用の洋風の本館と、それと接続する和風の付属屋・倉庫からなる。本館は木造2階建で、アインシュタインが1922年(大正11年)に宿泊した2階の部屋が当時の状態で「アインシュタインメモリアルルーム」として展示されている。また、門司区小森江が出生地とされる林芙美子にちなみ、林芙美子資料室(2階)がある。1階にはレストラン「三井倶楽部」がある。/大正10年竣工、木造、所在地:門司区港町7-1

G旧藤本ビルブローカー銀行(現福岡中央銀行門司支店)……株式會社藤本ビルブローカー銀行(-ふじもと-ぎんこう、1907年 改称開業 - 1933年 廃業改称)は、かつて存在した大阪府の銀行である。「大正バブル」と呼ばれる時代のベンチャー企業であるが、大和証券グループの前身となった。1924(大正13)年藤本ビルブローカー銀行門司支店として建設され、後に正金相互銀行(現・福岡中央銀行)の門司支店となり現在に至る。全体は表現主義的手法でまとめられ、櫛状のパラペットや2階中央のアーチ型の三連窓など非常に凝った造りである。設計者は不詳だが、日本分離派建築会に関係のある建築家の設計と推定される。/大正13年竣工、鉄筋コンクリート構造、所在地:門司区浜町2-18

H旧横浜正金銀行門司支店(現山口銀行門司支店)……1934(昭和9)年横浜正金銀行門司支店として建設された(設計は桜井小太郎)。英国風古典主義のデザインでまとめられ、正面玄関両側の2本の円柱を配し重厚さを感じさせる。戦後GHQの指令による横浜正金銀行解体後、1947(昭和22)年東京銀行門司支店となる。 1961(同36)年同行の下関支店への統合・閉鎖により、 1952(同27)年に門司港へ進出していた山口銀行門司支店が移転、現在に至っている。1891(明治24)年九州鉄道開業当時はこの場所に門司駅(現・門司港駅)があった。/昭和9年竣工、鉄筋コンクリート構造、所在地:門司区清滝2-3-4

I旧門司米穀倉庫(現福岡食糧事務所門司倉庫)……旧門司米穀倉庫は、政府が買い入れ米の備蓄施設として建設した10棟からなる倉庫群。後に福岡食糧事務所門司倉庫。倉庫はここで終点となる貨物線に沿って和洋折衷の棟が並ぶ。弓なりの鉄骨で支えた巨大な庇を10棟ひと続きに設置し、貨物駅の終着駅を思わせる。裏手は岸壁で、倉庫前に物揚場がある。/昭和3年竣工、コンクリート構造、所在地:門司区大久保2-3752-1

J旧大里精糖所(現関門製糖株式会社)……1903(明治36)年鈴木商店により大里精糖所が建設され、翌年開業した。 1907(明治40)年大日本製糖に売却され大日本製糖大里工場になる(鈴木商店は、この時の売却益を酒類、製粉、神戸製鋼所の進出にあてた)。 1982(昭和57)年三菱商事株式会社と共同で設立された生産子会社・西日本製糖株式会社の工場となる。 2001(平成13)年大日本明治製糖(大日本製糖と明治製糖が合併)と日本甜菜製糖との合弁会社関門製糖が設立し現在に至る。/明治後期竣工、煉瓦造、所在地:門司区大里本町1-2-1

K旧大里製粉所(現ニッカウヰスキー株式会社門司工場)……現在、製品倉庫として使用されている建物は、当時、財閥系の三井・三菱を凌ぐ国内最大の商社だった合名会社、鈴木商店の大里製粉所の倉庫として明治45年に建設された。醸造棟は大正3年、鈴木商店の大里酒精製造所として建設され、現在は両建物ともにニッカウヰスキー(株)の門司工場となっている/大正期竣工、煉瓦造、所在地:門司区大里元町2-1

L旧九州鉄道本社(現九州鉄道記念館)……経済産業省指定近代化産業遺産/1888年(明治21年)、九州最初の鉄道会社として「九州鉄道会社」が設立された。最初は博多に仮本社があったようであるが、翌年1889年(明治22年)門司駅開設と同時にここに本社として建てられたのがこの建物。門司税関より古くこの附近に残されている建物の中でも古い物の一つ。/明治24年竣工、煉瓦造、所在地:門司区清滝2-3-29

M旧九州鉄道茶屋町橋梁……市指定史跡/茶屋町橋梁は、旧九州鉄道大蔵線のアーチ橋。煉瓦造で、長平面と小口面を交互に積み重ねた英国式。槻田川に架かる。大蔵線は1911年に廃止、鉄道は海沿いの鹿児島線に付け替えられた。現在、橋梁は完全な遺構になり、まったく利用されていない。/明治24年竣工、鉄道橋、所在地:八幡東区茶屋町4番

N旧九州鉄道尾倉橋梁……1891年開通の九州鉄道大蔵線の橋梁で、茶屋町橋梁と同じ手法で構築されている。現在は、橋梁上に民家が建てられ道路も造られて、100年以上経ても活用されている珍しい例といえる。/明治24年竣工、鉄道橋、所在地:八幡東区尾倉1-7-13

O旧古河鉱業若松ビル……経済産業省指定近代化産業遺産/この建物は、大正8年(1919年)旧財閥系企業の古河鉱業が若松に進出した折の支店事務所ビルで、石炭の積出港として賑わった若松バンド(海岸通りの近代港湾都市空間帯)のシンボル的な建物として、大正・昭和の時代をこえて長く地元住民に親しまれてきた。現在、旧古河鉱業若松ビル管理運営委員会が維持管理に当たっている。/大正8年竣工、煉瓦造、所在地:若松区本町1-11-18

P石炭会館……石炭会館は、若松南海岸(若松バンド)の若松南海岸通り(エルナード)にある小さな会館。若松石炭商同業組合が組合事務所として1905年に建設した。若松のレトロのよいところは、古い建物が今も昔と変わらず日常的に利用されているで、現在の石炭会館には若松法人会、若松労働基準協会ほか、零細事業者が入居している。/明治38年竣工、木造/所在地:若松区本町1-13-15

Q港銭収入所見張所……明治23年、若松港の築営を目的に若松築港会社(現・若築建設(株))が設立された。創業当初から若松港の管理を行った若松築港会社は港銭の徴収を官許され、若松港の修築運営にあたった。この建物は出入港する船を見張るための場所で、港湾に関する管掌が県に移された昭和13年まで使われていた。/昭和以前竣工、コンクリート構造/所在地:若松区本町1丁目

R旧三菱合資若松支店(現上野ビル)……上野ビルは、1913年に三菱合資会社が若松支店として建設した事務所。本館に三菱の痕跡はないが、敷地左手に煉瓦造の倉庫があり、切妻破風に三菱の社章が刻まれる。若松の表玄関となる市営若戸渡船の若松渡し場を出て左手に位置し、若松南海岸(若松バンド)へ足を踏み入れた来街者が最初に目の当たりにする。若松の近代建築でもっとも大きく、もっとも無骨で、もっとも華麗な建築物だ。/所在地:若松区本町1-10-17

S川ひらた……経済産業省指定近代化産業遺産、県指定有形民族文化財/川ひらたは米や石炭をはこんだ船。五平太船(ごへいたぶね)とも呼ばれた。堀川の川ひらたがもっとも多く利用されるようになったのは、筑豊地方でとれた石炭を運ぶようになってから。1891年(明治24年)に若松から直方(のうがた)の間に鉄道が開通したが、それからも川ひらたの運行は増えつづけ、全盛期(には1年に13万以上の船が堀川を通った。/所在地:八幡西区折尾高校内

21.旧ごんぞう小屋……北九州では、沖の本船で石炭荷役をする仲士のことを ”ごんぞう” と呼んだ。かって明治時代、石炭積出港として隆盛を極めた若松には、そうした ”ごんぞう” のエネルギッシュな姿があった。「旧ごんぞう小屋」は、当地にあった彼らの詰め所を模して作られたレトロな休憩所。小屋内には当時の若松の姿を紹介したパネルなどが展示されており、若松の歴史にふれることができる。/所在地:若松区本町1丁目地先

22.堀川運河(車返しのノミ跡)……川ひらたが行き交った堀川運河の歴史は非常に古く、遠賀川の治水対策として元和7 年(1621)に工事が開始された。途中128年間の工事中止を経て、人力による手掘作業で文化元年(1804)に完成。車返しと呼ばれる高さ20m、長さ400mの堅い岩山を削る工事は困難を極め、崖には岩を削った無数のノミの跡が残る。/1757(宝暦7)年竣工、岩盤のノミ跡/所在地:八幡西区折尾高校付近

23.JR折尾駅……鹿児島本線と筑豊本線の乗換駅、折尾駅は日本初の立体交差の二重構造を持つ。明治24年、九州鉄道と相次いで開業した筑豊興業鉄道が交差したところに駅を置いた結果である。かつては駅舎も2つ、それぞれが独自の職員を抱えていたが、両社の合併、国有化を経て大正5年に現在の重厚感ある洋風木造建築駅舎が完成した。/大正5年竣工、木造/所在地:八幡西区堀川町1-1

24.火野葦平資料館……高塔山を仰ぎ、洞海湾に臨む若松市民会館内に、昭和60年6月オープンした。室内(200平米)には、昭和35年、自ら命を絶った河伯洞書斎の復元(常設)の他、生涯をたどる写真パネルをはじめ、通知表、日記、従軍手帳、河童絵、創作ノート、絶筆原稿など、玉井家寄託による遺品を中心に、約3000点が収蔵され、年3回、テーマによって展示換えが行われている。/所在地:若松区本町3-13-1(若松市民会館内)

25.河伯洞……河伯洞(かはくどう)は河童の棲む家という意味で、火野葦平 が河童をこよなく愛したことから付けられた。葦平はこの河伯洞で昭和15年から昭和35年亡くなるまでの大半を過ごし、『花と龍』をはじめとして数多くの作品を生み出した。/所在地:若松区白山1-16-18

26.八幡製鐵所東田第一高炉……市指定史跡、経済産業省指定近代化産業遺産/日清戦争に勝利した日本政府が1896年3月30日に、製鐵所官制を発布し、1891年に一大国家プロジェクトとして、本格的な建設を開始した福岡県八幡村の官営八幡製鉄所で、東田第一高炉の火入れが行われた。1901年11月18日には東京から多数の来賓を迎えて作業開始式が祝われた。建設費は、日清戦争で得た賠償金で賄われた。/所在地:八幡東区東田2-3-12

27.旧松本家住宅(現西日本工業倶楽部)……国指定重要文化財、経済産業省指定近代化産業遺産/明治44年竣工、木造/わが国産業界の重鎮・松本健次郎の旧宅で、大規模な洋館、日本館、数棟の附属屋からなる明治後期の典型的な貴紳住宅。洋館は辰野金吾が主宰する辰野・片岡事務所、日本館は洋館の建築監督をした久保田小三郎の設計による。/所在地:戸畑区一枝1-4-33

28.大谷会館……経済産業省指定近代化産業遺産/昭和2年竣工、鉄筋コンクリート構造/八幡製鐵所の職工専用の親睦・趣味・娯楽施設。H字型で左右対称の外観や、アール・デコ様式のデザインなど当時最先端の鉄筋コンクリート造の建築物で、外壁には製鐵所の鉱滓煉瓦が使われている。1989年に「北九州市建築文化賞」を受賞。現在は結婚披露宴やパーティー、会席料理会場として利用できる。/所在地:八幡東区大谷町1-2

29.堂山成品岸壁……八幡製鐵所専用に建造された石積み岸壁。かつては製鐵所の製品積出しに頻繁に利用され、日本産業の最前線を担っていた。現在は港湾緑地帯として整備され、ベンチに座って洞海湾を望むことのできる市民の憩いの場になっている。/大正13年竣工、鉄筋コンクリート石張構造、所在地:八幡東区東田5-2 ウインズ八幡近辺

30.旧百三十銀行八幡支店……市指定有形文化財/この建物は大正4年(1915)12月、辰野金吾の主宰する事務所が設計したもので、営業室・金庫室・管理室からなる鉄筋コンクリートの小規模な造りである。内部は銀行店舗という性格上、意匠に特筆すべきものはないが、外観は赤煉瓦の壁体に、玄関・柱頭・窓周りを幾何学的模様で施し、その部分は「洗い出し」で石造風に拵え、盛時辰野式にはほど遠いが、大正期のモダンデザインを表現している。/所在地:八幡東区西本町1-20-2

31.河内貯水池……新日本製鐵株式会社(新日鉄)が管理を行う民間企業所有ダムで、高さ44.1メートルの粗石モルタル製の重力式コンクリートダム。官営八幡製鉄所の鉄鋼増産態勢に対応するため、需要が増大する工業用水確保を目的として建設された。完成以来現役で稼働しており、南河内橋(後述)とともに土木学会選奨土木遺産に認定されている貴重な文化遺産でもある。北九州国定公園に指定されている。/所在地:八幡東区大蔵2500-1、他

◆世界遺産登録への取組み◆

平成20年9月26日の文化庁世界文化遺産特別委員会において、「九州・山口の近代化産業遺産群」はユネスコの世界遺産暫定一覧表に追加記載されることが決定されました。この決定を受け,平成20年10月29日、関係6県11市により伊藤祐一郎鹿児島県知事を会長とする世界遺産登録推進協議会が設置され,世界遺産登録に向けての活動が本格的に始まりました。また、平成21年10月の専門家委員会でまとめられた構成資産等に関する提言書を受け、平成22年度から6県10市の新体制となりました。

@旧官営八幡製鐵所関連施設(旧本事務所、旧鍛冶工場)……苦難の末、明治の気概と情熱が花開いた一大国家プロジェクト/所在地:北九州市と中間市

《 U.建造物 》

@八坂神社……祇園さま(スサノオノミコト)は9世紀頃には、既に小倉の地に祀られていた。 元和3年(1617年)に丹後国(現在の京都府)から小倉の地に移ってきた細川忠興公が、改めて祇園社(のちの八坂神社)の社殿を小倉・鋳物師町に創建した。/所在地:小倉北区城内2の2

A寿命の唐戸水門(じめのからとすいもん)附 閘開削記念碑……市指定有形文化財/摘要元和6年(1620)、福岡藩主黒田長政は遠賀、鞍手二郡の水害防止、灌漑用水の確保、輸送の利便を目的として、現在の中間市から遠賀川を分け、水巻町、八幡西区折尾を経て洞海湾に通じる約12kmの堀川水路開削事業を計画した。宝暦12年(1762)にようやく完成したが、その後分流点付近に支障が生じたため、文化元年(1804)分流点を変更する工事が行われ、この寿命の唐戸が完成した。/所在地:八幡西区楠橋西3丁目12番内

B三宜桜……昭和2年(1927)建築といわれている昭和初期ににぎわった門司港の政財界の社交場。述べ床面積は約1,200平方メートル。二階には柱のない80畳の大広間。昭和36年には俳人の高浜虚子が訪れ、その時に詠んだ句碑が近くに残っている。/所在地:門司区清滝3-3-2

C関門鉄道トンネル……関門鉄道トンネルは、山陽本線下関駅 - 門司駅間にある海底トンネルの名称。関門海峡を横断する陸上交通機関では最も古い存在であると同時に、世界初の海底鉄道トンネル(水底トンネルは前例あり)でもある。/

D杤木ビル……杤木(くちき)ビルは、杤木商事(現、杤木汽船)が1920年に本社として建設した建物。現在は雑居の事務所ビルで、松栄ほか数社が入居する。現在は真紅の若戸大橋の下に立地するが、竣工当時は若戸大橋はなく、このあたりは門司港駅西側の国道198号のような岸壁を背に建物が密集した海岸通りだった。/所在地:若松区本町1-15-10

E料亭金鍋……国登録文化財:料亭金鍋本館、料亭金鍋表門/明治28年に創業した老舗の料亭である。創業当初の建物は被災したため、明治末から大正初めにかけて現在の建物に再建され、現在も料亭として使用されている。本館の重厚な黒漆喰の外観と丸太材を使用した表門は、再建当時の若松の繁栄を今に伝える建築として、また失われつつあるこの地域の歴史的景観の中で貴重な存在となっている。/所在地:若松区本町2丁目561番地、522番地、523番地

F明治専門学校表門守衛所……北九州の炭坑(明治鉱業)を手がけた安川財閥(安川敬一郎)により、鉱山技術者の養成を目的に、1909年(明治42年)に開校した私立「明治専門学校」である。採鉱学科、冶金学科、機械工学科が置かれ、日本で初めての4年制専門学校であった。現在でも通称としてめいせん(明専)と呼ぶことがあり、同窓会や戸畑キャンパス学生寮の名称にも「明専」の名が残っている。当初の校舎は辰野金吾による設計で、正門脇の守衛所は現在唯一残る建物である。/所在地:戸畑区仙水町1-1

G海峡ドラマシップ〜門司港レトロ〜……施設のテーマは「海峡」、コンセプトを「海峡のドラマ館(人・歴史・ロマン)」として、関門海峡にまつわる歴史、文化、自然を紹介し、子供から年寄りの方まで楽しめる魅力的な施設となっている。/所在地:門司区西海岸1丁目3番3号

《 V.伝統芸能 》

@小倉祇園祭り……県指定無形民族文化財/小倉祇園太鼓競演大会は、毎年七月の第3土曜日に開催され、その日をはさむ金曜から日曜までの3日間、祇園祭が行われている。

A戸畑祇園大山笠……国指定重要無形民族文化財/博多祇園山笠、小倉祇園太鼓とともに福岡県の夏の三大祭りと称され、全国的に有名な祭り。200年の歴史を誇り、昼は4体の大山笠が古式ゆかしく12本の大幟を立て、小若山笠を従えて練り歩く。夜になると、大幟などの装飾を取り払って、提灯309個を12段(約10m)に重ねた光のピラミッド(提灯大山笠)に姿を変える。『ヨイトサ、ヨイトサ』のかけ声とともに進んでいく姿は圧巻。

Bバナナの叩き売り……バナナのたたきうりは、八百屋、露天商、的屋が行う、独特の口上を述べながらバナナを露天で売りさばく商売形態。いわゆる啖呵売のひとつとして有名である。大正時代初期に北九州市門司区の門司港周辺で行われたのが元祖といわれる。JR門司港駅を出て右手に行ったところにある旅館「群芳閣」(門司区港町1-7)の玄関横に『バナナの叩き売り発祥の地』の記念碑が建っている。/開催地:JR門司港駅前広場

《 W.史跡 》

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)とは、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。

@壇ノ浦(北九州側)……海峡に接した門司(区)に残る多くの故地、歴史がまざまざと蘇ってくる。

・御所神社……御所神社は柳の御所とも呼ばれ寿永2年(1183)源氏に追われた平家が太宰府、芦屋を経てこの地に御所を定めた。このことからこの地は内裏(だいり)と名付けられましたが享保の頃、海賊の出没により内裏の海に血を流すのは恐れ多いとして大里に改めた。/所在地:門司区大里戸ノ上一丁目11

・風呂の井戸……安徳天皇・平家一門の旅の疲れを癒すため湯浴みに用いられたという泉、「鏡ヶ池の玉水」。/所在地:門司区柳町2丁目10番

・平知盛の墓……門司区の甲宗八幡神社に平知盛の墓石と供養塔がある。/所在地 :門司区旧門司1丁目

・太刀浦の井戸……この池(井戸)の底は岩盤で、昔、壇ノ浦の合戦で安徳天皇の御太刀を沈めて戦勝祈願を水神に祈ったと言い伝えられている。また、平家の侍大将が血太刀をこの池の水で洗ったという伝説があり、これが太刀浦の名前の由来とされている。/所在地:門司区太刀浦

・五輪塔……和布刈神社の東側、道路を越えた和布刈公園山裾の建物跡の敷地内にひっそりと置かれている。一基は、一石五輪塔で、もう一基は、水輪と火輪のみの五輪塔。/所在地:門司区和布刈

・海御前の碑……周防灘に面した大積地区に、大積天疫神社境内に水天宮が祀られている。祭神は平家の武将・能登守教経の婦人・海御前(あまごぜ)。/所在地:門司区大積

・平山観音と殿墓……壇ノ浦に敗れた平家の残党が、一族を弔う為に回向堂を建立したのが平山観音院の起こりといわれている。寿永4年(1185)、命を受けて宇佐八幡へ戦勝祈願に行った平休息(やすとも)はその帰途平家の敗戦を知って山中へ潜んだ。その後、八木田と性を変えて農業に従事した。討ち死にした一族の墓を集めて供養したのが殿墓(8基5輪の塔)である。/所在地:門司区黒川字暗谷

・隠蓑の里人……小倉南区隠蓑の里に古くから伝わる祭。源平合戦で敗れた平家の一門は、安徳帝は入水したと偽り、安住の地を求め隠蓑の里にさしかかった。源氏の追っ手が迫っているのを知った里人は、ワラの中に安徳帝をかくまい、追っ手の目をくらますことができたという伝説に因む祭り。毎年12月15日、安徳帝を偲ぶ祭と農村の収穫儀礼行事を合わせた祭として行われている。/所在地:薬師寺 隠徳庵(小倉南区隠蓑18-9)

A藍島(あいのしま)遠見番所柱台……県指定文化財/日本書紀の仲哀紀に「阿閇島」として登場している。隣接する無人島の貝島からは6世紀のものとみられる古墳群が発見される等歴史の古い島である。1705年(宝永2年)から1723年(享保8年)、響灘に密貿易の船が出没したため、小倉藩が遠見番所を建てた。その際に使用された旗柱台(1721年設置)は県指定文化財である。/所在地:小倉北区藍島

B茶毘志山古墳……市指定史跡/曽根平野の中央を流れる貫川左岸の、洪積台地上に位置する。北東側約40mには上ん山古墳が近接している。本来前方後円形をした墳形であったが、昭和45年(1970)の採土工事で前方部が削平されてしまった。全長約54m、後円部径約30m、前方部幅約44m、後円部高約12m、前方部高約10mで、中規模程度の墳丘である。主体部は古式の横穴式石室の形態であったと思われる。築造時期は、墳丘形態や円筒埴輪片などから5世紀後半から末頃に比定される。なお、墳丘下には弥生時代の遺跡が広がっている。/所在地:小倉南区東貫2-15、2-13

C小田山古墳群……市指定史跡/標高35〜55mの小田山丘陵東側斜面に響灘を見下ろす状態で築造された古墳時代後期の古墳群である。この古墳群はどれも内部主体に横穴式石室をもつ小円墳で、横穴式石室は玄室と羨道からなる単室構造である。各古墳群とも追葬が行われている。大正時代初期までは大小50余基の古墳があったといわれているが、周辺の住宅化により現存するのは指定範囲内の13基と周辺の数基である。昭和46年(1971)に古墳公園として整備された。/所在地:若松区深町一丁目16番内

D森鴎外旧居……市指定史跡/明治の文豪森鴎外が陸軍第12師団軍医部長として小倉に赴任した折り、明治32年6月から1年半住んだ鍛冶町の家。鴎外は、この家で「我をして九州の富人たらしめば」「鴎外漁史とは誰ぞ」等を書いている。帰京後書いた小説「鶏」は、この家を舞台にしたもの。/所在地:小倉北区鍛冶町一丁目7番2号

E木屋瀬宿西構口跡……市指定史跡/木屋瀬宿(こやのせじゅく)は、長崎街道の起点である小倉から2番目の宿場である。博多を経て唐津に至る唐津街道が分岐している。宿の出入り口の道の両側に石が積み重ねられている。木屋瀬宿の西構口跡です。ここと東構口の間約900mが木屋瀬宿となる。西構口の前に小径が交差している。その角に追分道標がある。右赤間道、左飯塚道と刻まれている。/所在地:八幡西区木屋瀬四丁目内

F安国寺……足利氏の創建にかかる安国寺の一つで、寺伝では歴応2年の開創。旧道場は三本松にあったが、永正12年に玉泉寺(門司区畑)の怒心和尚が再興して同寺の末寺となり、慶長5年、もと長円寺(浄土宗)のあった現在地に移転したと伝える。/所在地:小倉北区竪町1丁目

G宮本武蔵と手向山……手向山公園の中を散歩するといくつかの史跡に巡り会うことが出来る。宮本武蔵の養子、伊織が1654年(承応3年)に建てた宮本武蔵の記念碑、武蔵との決闘を称えて作られた佐々木小次郎記念碑など。 関門海峡にある船島(巌流島)での佐々木小次郎との決闘をはじめ、有名な剣術家との勝負の記録が書かれている。/所在地:小倉北区赤坂4(手向山公園)

H小倉城……小倉城は13世紀中ごろ、紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれ、近世の江戸時代前後に毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興が南蛮造の天守などを建てた。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。/所在地:小倉北区勝山公園内

I小倉陸軍造兵廠……小倉は明治時代から昭和20年まで、陸軍の部隊や兵器工場があった軍都。特に造兵廠と呼ばれていた兵器工場は現在の市役所から、木町まで広がるとても大きな工場だった。1923年(大正12年)、関東大震災によって東京・小石川にあった兵器工場が大被害を受け、1927年(昭和2年)に小倉へ造兵廠移転が決定し、1933年(昭和8年)に小倉兵器製造所との合併、陸軍造兵廠小倉工廠が開設された。そのため、小倉陸軍造兵廠は1945年(昭和20年)8月9日には原子爆弾の第一投下目標にされた。 しかし前日の八幡大空襲の煙と曇り空のため、造兵廠が確認できず、原子爆弾は長崎に投下された。/所在地:小倉北区城内4番(勝山公園内)

J清麻呂と妙見宮……宝亀元年(770年)和気清麿が創祀した全国唯一の神社で、全国妙見神社の総本宮となっている。また、和気清麿の足が立った御神徳が受け継がれ足の神様として厚く信仰されている。清麿は、宝亀元年四男磐梨為綱(出家して妙運)を造化天神降臨の地、足立山に送り、足立山妙見宮を創建。772年、国司大伴百世の助けを得て、足立に下宮足立山平癒寺を建立。817年、清麿の三男参議真網卿が、宇佐の帰り、下宮に清麿公と祖先の神霊を祀る。/所在地:小倉北区妙見町

K長州藩との戦い……長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、1860年代に江戸幕府と毛利氏長州藩の間で2次にわたって行われた戦いである。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、征長の役、長州戦争などとも呼ばれる。第二次の長州征討は第二次幕長戦争とも、また幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の4方から攻めたため、長州側では四境戦争と呼ばれる。第二次征伐の失敗によって、幕府の武力が張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力がほぼ無くなる結果を招いた。

L常盤橋……江戸時代、常盤橋は小倉から九州各地にのびる諸街道の起点であり終点でもあった。長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還の5つを「小倉の五街道」と呼び、そのすべてがこの橋につながっていた。当時、紫川の西と東を結ぶ橋は2つしかなく、城下町小倉の中心地は室町・京町筋だったことから、常盤橋は非常に重要な橋であったことが推察できる。/所在地:小倉北区常盤橋

M和布刈神社……社伝で伝えられる限りでは神功皇后の三韓征伐後奉祀されたもので仲哀天皇9年(200年)創建とされる。古くは「隼人明神」とも呼ばれた。壇ノ浦の戦いの前夜には平家一門が酒宴を開いたと伝えられる。神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる。/所在地:門司区大字門司3492番地

【 北九州市の周辺地区 】

@南蔵院……高野山真言宗別格本山篠栗四国総本寺/篠栗新四国霊場の総本寺。全長41m、高さ11mの釈迦涅槃像は、ブロンズ像としては世界一の大きさ。本堂、大師堂からなり、奥には修行の場となる落差7mの不動の滝が流れる。/所在地:粕屋郡篠栗町大字篠栗1035

A芦屋釜……国指定重要文化財/制作が始まった鎌倉時代から名声を博し、室町時代には一世を風靡した茶の湯釜の名器が芦屋釜。その歴史は江戸時代初期に終わったといわれているが、芸術性、技術力に対する評価は今なお高く、国の重要文化財に指定されている。茶の湯釜9個のうち8個までを芦屋釜が占めている。/所在地:遠賀郡芦屋町大字山鹿1558-3

B豊前国分寺三重の塔……県指定文化財/豊前国分寺(ぶぜんこくぶんじ)は奈良時代に聖武天皇の勅願(741年)により、全国に設置された国分寺の一つ。豊前では豊津に国府が置かれていた。/所在地:京都郡みやこ町国分297-1

C田川市石炭・歴史博物館……田川市石炭・歴史博物館は、かつて日本のエネルギーを支えた筑豊炭田の石炭産業に関する資料を展示した博物館である。石炭記念公園内にあり、博物館の向かいには炭坑節発祥の地の記念碑が建っている。この公園内には三井田川炭鉱の二本煙突と伊田竪坑櫓、筑豊地区で使われた蒸気機関車9600形(59684)と貨車(石炭車)1両が保存されている。/所在地:田川市大字伊田2734番地の1

D旧伊藤伝右衛門邸……飯塚市有形文化財/旧伊藤伝右衛門邸は明治期に建てられ、大正期・昭和初期に増築された近代和風建築物として その粋を凝らした豪邸は、広大な庭園とともに歌人柳原白蓮が日常起居した建物として飯塚市内に残る数少ない石炭遺産であるとともに「炭鉱王 伊藤伝右衛門」の功績を伝える唯一の文化遺産。/所在地:飯塚市幸袋300番地

E嘉穂劇場……国登録有形文化財、経済産業省指定近代化産業遺産/1931年(昭和6年)、当時の嘉穂郡飯塚町で伊藤隆により設置される。前身は1921年(大正10年)に大阪・中座を模して建てられた木造3階建ての「株式会社中座」であり、1928年(昭和3年)に焼失し、翌年に再建されるも1930年(昭和5年)の台風で倒壊した。観客は当時筑豊地域の中心産業であった石炭炭鉱の労働者とその家族が中心で、大衆演劇や歌手の公演などで賑わった。しかし石炭産業の衰退もあって、1962年(昭和37年)には延べ266日であった公演数は、1970年代には10〜15日に落ち込む。・・・/所在地:飯塚市飯塚5番23号

F宗像大社……宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。/所在地:宗像市田島2331

【 下関市 】

《 T.産業遺産 》

@内日貯水池……いまも稼動する明治の上水道/下関市の上水道システムは1906(明治39)年、県内では初めて、全国でも9番目に敷設された近代上水道システムである。内務省衛生局顧問技師のスコットランド人バルトンの予備調査に基づき、水道技師瀧川釛二が設計した。創設期の水源地が内日(うつい)第一貯水池である。堰堤は内部に粘土壁を備えた近代的アースダム(土堰堤)であり、明治期の水道用堰堤としては国内最大級と言われている。煉瓦にまとわれた取水塔や眼鏡橋形状の余水水門などが明治の構造物らしさを漂わせている。/所在地:下関市内日上猿山356-9

A角島灯台……明治6年8月にスコットランド人、R.H.ブラントンにより設計起工された角島灯台は、明治9年に日本海側最初の石造り灯台として、初点灯し現在も活躍している。石造り灯台としては29.6mあり、日本第3位の高さを誇る。灯台内には、105段のらせん階段があり、屋上の踊り場では360°のパノラマが楽しめる。/所在地:下関市豊北町大字角島853-4

◆世界遺産登録への取組み◆

@前田砲台跡……下関戦争の激戦地、日本の近代史の転換点となった歴史的場所/所在地:下関市前田1丁目

A六連島(むつれじま)灯台……下関四国艦隊砲撃事件の産物〜”お雇い外国人”による西洋式灯台〜/所在地:下関市大字六連島

《 U.建造物 》

@功山寺……国指定重要文化財/功山寺は下関市長府にある曹洞宗の寺で、長府毛利家の菩提寺。ここは周防・長門を支配した戦国大名大内家の最後の当主:大内義長が、毛利元就軍に囲まれて自刀した地でもある。義長の死により西国の名門大内氏は滅亡し、この地は毛利氏の支配下となった。/福岡に亡命していた晋作は、死を覚悟して帰国し、藩論回復のため、遊撃隊士などわずか80人ばかりの同士をひきいて俗論党打倒をさけびクーデターの兵を挙げた。その決起の地が功山寺である。当時、京都から落ちのびてきた討幕派の公卿7人のうち三条実美はじめ5人が功山寺にひそんでいた。晋作は私兵でない証とするため、五卿にあいさつしたのちに挙兵した。/所在地:下関市長府川端1丁目

A住吉神社……国指定重要文化財/住吉神社は山口県下関市にある神社である。式内社(名神大社)、長門国一宮で、旧社格は官幣中社。大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一つとされている。大阪の住吉大社が住吉三神の和魂を祀るのに対し、当社は荒魂を祀る。/所在地:下関市一の宮住吉1-22-1

B旧下関英国領事館……国指定重要文化財/明治後半、時の駐日英国大使アーネスト・サトウは、成長著しい西日本における外交・経済・交通の拠点である下関に英国領事館を設置することを本国へ具申。明治34年(1901)9月、英国領事館が下関に設置された。/所在地:下関市唐戸町4-11

C下関南部町郵便局……国登録有形文化財/赤間関郵便電信局(現・下関東郵便局)として建築されたもので、1975年(昭和50年)下関東郵便局の移転に伴い、同じ建物を使用して新たに当局が設置された。煉瓦造2階建て洋風建築の建物で、1900年(明治33年)に完成。設計は三橋四郎が担当した。現役の郵便局舎としては国内最古のものである。/所在地:下関市南部町22-8

D旧山陽ホテル……山陽ホテルは、山陽鉄道が山陽線の終着駅にして大陸航路の玄関となる馬関駅(翌年に下関駅)とセットで開業させたホテル。戦前は大陸植民地へ渡航する皇族や政府高官ご用達の宿泊施設で、当時の新聞が宿泊者の氏名と職業を連日掲載するほど社会的地位が高かった。ホテルの開業は1902年。/所在地:下関市細江町3-2-7

E旧宮崎商館(旧ロダン美容室)……旧宮崎商館は、宮崎義一により神戸で設立された石炭輸送業を営む商社で、明治26年に下関に支店が設立され、その後下関が拠点となった。外観は赤煉瓦と白い石の組み合わせが美しく、1階には中央部分にアーチの玄関、2階部分には開放的なベランダに5つのアーチが連続し、縦長の窓も並んでいる。/所在地:下関市田中町4-10

F旧秋田商会ビル……旧秋田商会ビルは、大正4年(1915)に竣工した和洋折衷の極めてユニークな建築物。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階、塔屋付き、屋上には日本庭園と日本家屋を備えている。内部は1階を純洋風の事務所空間、2階及び3階を格調高い書院造住宅としており、西日本で最初の鉄筋コンクリート造の事務所建築であるとともに、わが国に現存する同種建築物としては最古級のもの。/所在地:下関市南部町

G山口銀行旧本店……県指定有形文化財/三井銀行が昭和8年に百十銀行に営業権を譲渡後その本店となり、昭和19年には県下6つの本店銀行が統合して山口銀行が創立され、その本店となった。昭和40年に新本店が完成した後は同銀行の支店や別館となるなど変遷を重ねた。/所在地:下関市観音崎町10-6

H旧滝部小学校本館……県指定有形文化財/ルネッサンス様式を取り入れ、石造建築を木造に引き写した珍しい建物で、地元出身の中山太一ほか2兄弟が、私財約7万の巨費を投じて建設し、1924年(大正13)に当時の滝部村に寄付したもの。ドイツ人が設計し、宮大工の伝統を持つ地元の棟梁橋本銀之助氏によって建てられた。現在は民俗資料館として開放し、民俗資料、歴史資料、貨幣、考古資料を展示している。/現在、改装工事のため、平成23年まで閉館の予定。/所在地:下関市豊北町大字滝部3153-1

I旧殿居郵便局局舎……下関市豊田町殿居に所在する木造平屋建て八角塔屋2階建て付きの建物。殿居郵便局は明治35年に開局したが、ときの局長河田寛は、大正10年頃から洋風建築に改築する意向をもち、地元の大工棟梁山本安一を同道して上京し、洋風建築を見学して回った。帰村後、同大工に建築させ、大正12年に完成した。/所在地:下関市豊田町殿居1111-2

《 V.伝統芸能 》

@先帝祭……王朝絵巻平家栄華の極み:十二単正装神殿参拝(於 赤間神宮)と、帝を偲ぶ美しく高雅な上臈(じょうろう)道中:〈上臈道中〉(於 伊崎町西部公民館前より唐戸赤間本通り)、〈上膓参拝〉(於 赤間神宮)が、毎年5月上旬に行なわれる。

A平家踊り……平家踊りは寿永の昔、平家終焉の哀史以来壇ノ浦に入水した安徳天皇の霊を慰めると共に、平家一門の供養に端を発しているといわれている。/下関平家踊保存会 彦島連(下関市彦島江の浦町1丁目3−1)

B馬関祭り……「馬関(ばかん)」とは、下関市の昔のニックネーム。明治22年の市制施行当初は「赤間関市(あかまがせきし)」としてスタートしたが、「赤間」の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」、それが「馬関」となった。日曜日の平家踊総踊り大会は、いまや世界的に知名度を高めた「平家踊り」を、約5千人の踊り手で会場を埋め尽くして踊る。また、朝鮮通信使行列の再現も行われ、信書交換式などを見ることができる。/開催場所:JR下関駅〜唐戸各所

C下関さかな祭り……例年11月23日に開催、魚食の普及と消費拡大、水産業界の活性化を目的として昭和58年から実施されている。ここ数年は6万人を集める大イベントに成長し、全国の水産イベントの中でも最大級。活魚・鮮魚をはじめ、ふく刺し、寿司、水産加工品等の即売や魚を使った料理教室等もあわせて行われる。また、1万食のふく鍋を一度に作ることができる、恒例の「スーパージャンボふく鍋」やあんこう鍋、くじら鍋も出店される。肌寒い朝焼けのなかで食べる鍋は格別。/開催場所:下関漁港(下関市大和町・下関駅西側)

《 W.史跡 》

@壇ノ浦(下関市側)

・満珠・千珠島……源平が集結した場所。平家の作戦は、海戦経験の少ない源氏を潮流の変化の激しい長門の満珠・千珠両島沖におびき寄せるというものだった。関門海峡の西:彦島に平家軍千余艘、東:満珠島に源氏の船団三千余艘が陣取る。1185年(治承四年)3月24日正午、海戦の火蓋が切られた。

・平家塚……平家塚は平家落人の墓と伝えれれているもので、古い五輪塔6基のほか墓石がある。/所在地:下関市大字高畑

・平家の一杯水……平家のある者は傷を受けながらも、ようやく岸にたどり着いた者もいた。そのうちの一人が肩と足に矢を受けて海に落ち、深手を負いながらも命がけで岸に泳ぎ着いた平家の武将は、ふと前の方を見ると山すその渚にわずかな水溜まりがあった。武将はのどの渇きを癒そうと、痛むからだを引きずってやっとの思いで水溜まりに近づき、手のひらにすくい、その水を一口飲んでみると、それはおいしい真水だった。夢中になってもう一口と、また手のひらにすくい、再び水を口にしたところ、思わず吐き出してしまった。真水は海水にかわっていた。/下関市前田町1-1-1(関門海峡沿い、「しずか本館」隣り)

・みもすそ川公園……みもすそ川公園は源平合戦の最後の舞台となった壇ノ浦に面し、国道9号と関門海峡に挟まれて立地する。/所在地:下関市みもすそ川町1番

・赤間神宮……旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、「耳なし芳一」の舞台でもある。/所在地:下関市阿弥陀寺町4-1

・大歳神社……源義経<戦捷祈願の地>、白石正一郎<攘夷成就祈願の地(大鳥居奉納)>、高杉晋作<奇兵隊旗揚げの地>/所在地:下関市竹崎町1丁目13番地10号

・長門国厳島神社……平家一門が安芸の厳島神社の分霊をいただいて守護神として戦中に祀っていたが、壇之浦の合戦後、磯辺に漂着していた神霊を寿永4年(1185)に社殿を建立し、祀ったのに始まるといわれている。境内には慶応2年(1866)小倉戦争に勝った戦利品として、奇兵隊が小倉城から持ち帰った大太鼓が保管されている。/所在地:下関市上新地町1丁目1-11

・御旅所(おたびしょ)……壇ノ浦の戦いの翌日、伊崎に住む中島組という漁業団が丸太船4隻に分乗し、四ひろ網を張って小門(おど)海峡で漁をしていた時、網にかかったのが安徳天皇のご遺体だった。組の者は恐れ多いと直ちに小門の陸上に遺体を移し安置した。その場所を「御旅所」という。/所在地:下関市伊崎町2-9-21

・西楽寺(さいらくじ)……市指定有形文化財/平家ゆかりの寺で、建治2年(1276)、一遍上人の従者で平忠政の孫でもあった西楽法師によって開かれた。本尊の阿弥陀如来座像は平重盛の守り本尊であったと伝えられている。/所在地:下関市彦島本村町5-3-1

・きぬかけ岩……平家武将の妻の顔は紙のように白く、突然立ち上がると、今にも吹き飛ばされそうな体から着物を脱ぎ、岩にかけると手を合わせたままどす黒く渦巻く小門海峡に身を投げてしまいました。・・・/所在地:下関市彦島(小門(おど)海峡を玄海に抜け出る少し左手前彦島側)

・清盛塚……1185年の壇ノ浦の戦いのときに、平家軍が城(砦)を作っていたとされる場所にあり、そこは関門海峡の裏側で波静かな福浦湾を一望できる丘の上である。/所在地:下関市彦島江の浦町3丁目1番

A豊功神社……1917年(大正6年)6月、長府藩初代藩主毛利秀元以下を祀った豊功社を忌宮神社境内から移して、それまであった櫛崎・松崎・宮崎の各神社を合祀し、社号を廃して豊功(とよこと)神社となった。1986年(昭和61年)4月20日、この境内に明治維新に奇兵隊らと共に活躍した“長府藩報國隊顕彰之碑”が建立された。この豊功神社から望む満珠・干珠島の風景は素晴らしく、特に初日の出には多くの人々が訪れる。また、秋には恒例の観月祭が行われ、多くの方々が瀬戸内海に浮かぶ名月を楽しまれている。/所在地:下関市長府宮崎町4-1

B巌流島(がんりゅうじま)……宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたといわれていることで有名。当時は豊前小倉藩領の船島(ふなしま)であったが、佐々木小次郎が「厳流」(「岩流」とも)を名乗ったことから巌流島と呼ばれるようになった。関門海峡に浮かぶ小島(無人島)。正式な島の名前は船島である。/所在地:下関市大字彦島字船島

C串崎城址……大内家の家臣、内藤隆春の居城で、後に毛利秀元が再建したが、元和元年(1615)の一国一条の令によって破却された。残った大石垣が、名将といわれた秀元の城造りの手腕と、城の規模を伝えている。/所在地:下関市長府外浦町1

D土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム……土井ヶ浜遺跡は本州最西端に位置する山口県の響灘に面する西海岸沿いにある弥生時代の埋葬跡。保存状態の良好な弥生人骨が300体を超えるほど大量に出土した遺跡は土井ヶ浜遺跡だけ。土井ヶ浜遺跡の発掘調査は昭和28年(1953年)から始まり、昭和63年まで11次にわたる調査が行われた結果、約300体の弥生時代人骨が出土した。これらの人骨は日本人の起源や現代人の成り立ちを解明する上での貴重な資料として活用されている。/所在地:下関市豊北町大字神田上891-8

E綾羅木郷遺跡……国指定史跡/綾羅木郷遺跡(あやらぎごういせき)は、下関市綾羅木にある弥生時代の遺跡。 台地上には前方後円墳や墳墓の石棺などが残るほか、下関市内の別の場所から移された横穴式の円墳も存在する。 台地上に複数の遺構が存在しており、古墳時代のものや、平安時代から鎌倉時代、室町時代にかけての遺構も検出されている。 綾羅木郷遺跡の南側には下関市立考古博物館があり、綾羅木郷遺跡からの各種出土品が展示されている。/所在地:下関市大字綾羅木

【 山陽小野田市 】

@太平洋セメント小野田工場・竪窯(通称:徳利窯)……竪窯は国重要文化財、竪窯周辺は県指定文化財「小野田セメント徳利窯」/旧小野田セメント株式会社が明治16年(1883年)に建造した最初のセメント焼成用の竪窯のひとつで、明治30年頃に焼成容量増加を目的として一部改造された。焼成部分と煙突部分からなる煉瓦構造物で、高さは、焚口底部より約18mである。わが国に完存する唯一のセメント焼成用竪窯として、近代窯業史上、高い価値があり、西日本における建設事業の近代化を支えた旧小野田セメント製造株式会社の中心的施設として重要である。/所在地:山陽小野田市大字小野田6276番地(若生町)

A太平洋セメント小野田工場・大阪砲兵工廠製蒸気機関……セメント製造用の機械を駆動させるために導入された蒸気機関の1つ。当時、蒸気機関を製作することができたのは、工部省・赤羽工作分局、工部省・神戸工作分局(兵庫造船所)、東京砲兵工廠、大阪砲兵工廠、長崎製鉄所(造船所)、横須賀製鉄所(造船所)、石川島造船所などに限られていた。この蒸気機関は、大阪砲兵工廠が蒸気機関の製造を始めてから初期の頃のものであり、民間工場向けに製作されたものとして、極めて貴重な技術遺産。/所在地:山陽小野田市大字小野田6276番地(若生町)

B浜五挺唐樋(はまごちょうからひ) ……国指定史跡/寛文8年(1668年)に作られた排水用樋門。潮の干満で生じる自然の水圧を利用して開閉する招き戸など当時の工法を伝える貴重な遺構である。/所在地:山陽小野田市大字西高泊字浜

C旦の登り窯(だんののぼりがま)……市指定文化財/日本舎密(せいみ)製造株式会社(現:日産化学工業)の製造する硫酸などの容器を、明治26年から旦の製陶所で生産していた。旦の登り窯は、その当時の窯跡で、生産された瓶は「硫酸瓶」と呼ばれていた。 /所在地:山口県山陽小野田市旦西

D旧本山炭鉱斜杭坑口……市指定文化財/大正6年(1917年)に坑道として設けられ、昭和16年(1941年)に完成し、昭和38年(1963年)3月に坑口を閉鎖するまで使用された。坑道は沖合約3km、最深部約200m、総延長約19kmに及んでいる。形状は鉄筋コンクリートづくりで側面は石組。特徴は坑口の忍返である。/所在地:山陽小野田市大字小野田字1の大須恵214番4(大須恵)

E塚の川古墳(つかのこうこふん)……市指定文化財/塚の川古墳は直径約15メートルの円墳。内部にある石室は玄室・前室・羨道からなる複室構造の横穴式石室となっており、全長8.1メートル。玄室は、奥行き3.2メートル、幅2.5メートル、高さ2.4メートルの規模である。追葬が可能な構造となっている。/所在地:山陽小野田市松角

F厚狭毛利家居館址と墓所……市指定文化財/厚狭毛利家の始祖は毛利元就の五男の元秋とされる。厚狭に居館をかまえたのは3代の元宣から。しかし、実際には元宣も住んでいたのは萩で、家老として務めた。

【 宇部市 】

@旧宇部銀行館(旧山口銀行宇部支店)……近代化産業遺産に認定されている。/建物は渡辺翁記念会館等を手がけた村野藤吾の設計によるもので、1939年(昭和14年)に宇部銀行本店として完成した。1944年(昭和19年)3月31日には、「一県一行主義」により当時山口県内にあった宇部・大島・華浦・船城・百十の各行が合併して「山口銀行」が設立され、宇部銀行本店は山口銀行宇部支店となった。2010年(平成22年)9月25日に多目的ホールの宇部銀行館(愛称:ヒストリア宇部)として開館した。/所在地:宇部市新天町一丁目1番1号

A渡辺翁記念会館……国指定重要文化財/宇部市渡辺翁記念会館 は、宇部市発展の基礎を築いた渡辺祐策翁の遺徳を記念して、翁の関係した7事業各社の寄付を得て、昭和10年10月着工、12年4月に竣工(供用開始7月)しました。記念会館は著名な建築家、村野藤吾設計の傑作として国内外に広く知られた建造物で、宇部市の貴重な文化遺産であり、芸術文化活動の拠点施設である。/所在地:宇部市朝日町8番1号

B北迫遺跡……市指定史跡/北迫遺跡は弥生時代中期後半(1世紀頃)の貝塚を伴った住居跡と終末期の住居跡からなる高地性集落である。長頸壺形土器は貝塚から出土した唯一の完形品で、遺跡を代表する逸品。/所在地:宇部市川上

C石炭記念館……石炭記念館は、宇部市発展の基盤となった石炭産業を後世に伝えようと、市民の総力を挙げての寄付によって昭和44年、日本初の石炭記念館として誕生した。館内には近代化産業遺産に選ばれた3,000点を超える収蔵品が収められた資料館、モデル坑道、東見初炭鉱で実際に使われていた立抗櫓を移設して造られた展望台を備えている。また、屋外には蒸気機関車や炭鉱で使われていた機械が展示されている。/所在地:宇部市沖宇部北本町土手117

【 萩市 】

《 T.産業遺産 》

◆世界遺産登録への取組み◆

@萩反射炉……自力による近代化を成し遂げようとした先人たちの努力の結晶/所在地:萩市大字椿東4897-7

A恵美須ヶ鼻造船所跡……萩藩最初の洋式軍艦が建造され、今も残る当時の見事な防波堤/所在地:萩市大字椿東5168番地地先

B大板山たたら製鉄遺跡……たたらの伝統技術によって支えられた、自力による近代化/所在地:萩市大字紫福257-5

C萩城下町……長州の誇りと伝統が、今も息づく町並みと城跡/所在地:萩市大字堀内1番

《 U.建造物・史跡等 》

@三見(さんみ)橋……国登録有形文化財/三見橋は萩市の西部に位置する床並川の架かる橋で、通称「三見のめがね橋」の名で広く知られている。橋は大正3年(1914)に完成し、長さ21.4m、幅3.4m、水面からの高さ13.0mの大規模な石造りアーチ橋である。維新後の近代化の中で山陰地域の産業経済発展のためには交通の利便向上が不可欠であった。そこで道路の整備が取り上げられ、車道として萩小串間の仮定県道の改修が決まり、その県道の橋として建築されたのがこの橋である。山間の谷間を大きく跨いだ全景は、殊にアーチの曲線が印象的で、かつ堂々としている。/所在地:萩市三見字梅ノ木

A玉木病院旧館……大正7年(1918)病院本館を旧烏田家邸宅と病棟の中間へ新築し、玉木病院の基礎をつくる。(現存する大正初期の病院建築として日本近代建築総覧に記載)。平成19年大正7年建築の病院旧館を老朽化に伴い解体する。/所在地:萩市瓦町49

B松下村塾……/松下村塾は、日本が近代化、産業化を成し遂げていく過程で、重要な役割を担う人材を教育した機関。/塾を主宰したのは、萩藩校明倫館の兵学師範であった吉田松陰。隣接する吉田松陰幽囚ノ旧宅とともに国の史跡に指定された。2つの史跡は、1907(明治40)年に創建された松陰神社の敷地内にある。/所在地:萩市大字椿東1537

C松陰神社……松陰神社(しょういんじんじゃ)とは、江戸時代末(幕末)の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社である。松陰の墓所がある東京都世田谷区と、松陰の生誕地である山口県萩市にある。どちらも、学問の神として崇敬を受ける。/所在地:萩市椿東1537

D萩城(通称 指月城)……国の史跡、国の重要文化財(厚狭毛利家長屋)/日本海に張り出した指月山の詰の丸(実際は二の丸と本丸)と、その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城である。/現在は指月公園(しづきこうえん)として整備され、旧城の入り口には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。また、指月山の原生林は、国の天然記念物に指定されている。/所在地:萩市堀内

E藩校明倫館跡(萩市立明倫小学校)……国指定史跡/明倫館は江戸時代中期の享保3年(1718)藩主毛利吉元が城内三の丸に創建、翌年開校、幕末の嘉永2年(1849)毛利敬親がこの地に移した。水戸の弘道館、鹿児島の造士館と並ぶ、全国有数の規模をもつ。現在、明倫小学校の敷地内に有備館、水練池(すいれんいけ)、聖賢堂などの遺構が残り、「明倫館水練池および有備館」として明倫館碑とともに国の史跡に指定されている。/所在地:萩市江向602番地

【 長門市 】

@青海島鯨墓……国指定史跡/鯨墓(くじらばか・げいぼ)とは、受動的な捕鯨や捕鯨を生業にしている地域において、鯨を供養した墓のことで、日本独特の慣わしである。捕鯨を古くから生業にしてきた地域では「鯨塚」や「鯨碑」といったものが、存在し、鯨墓とあわせるとおよそ100基が日本に存在する。/長門市青海島の東部にある通地区、昔から漁業で栄え、かつては鯨組が組織され、長州・北浦捕鯨の本拠地だった。鯨墓は元禄五年(1692)、向岸寺五世讃誉上人の隠居所である清月庵(観音堂)に建立された。/鯨墓近くに「くじら資料館」(長門市通671-17)が建設された。資料館は国指定重要有形民俗文化財「140点の捕鯨用具」を中心に320年前の捕鯨用具などが展示されている。

A金子みすず記念館……金子 みすず(1903年(明治36年)4月11日 -1930年(昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。本名、金子テル。大正末期から昭和初期にかけて、26歳の若さでこの世を去るまでに512編もの詩を綴ったとされる。/記念館では遺稿集や当時の雑誌、みすゞの着物や写真などを展示している。/所在地:長門市仙崎祇園町

B村田清風記念館……吉田松陰の師 村田清風は四白政策(藩の時代にわたる殖産振興のなかで最も代表的なものは防長米、紙、塩の振興策であって、これを防長の三白政策といい、蝋を加えて防長の四白政策といわれた)で、維新回天の礎を築く。藩政改革の中心人物として手腕を揮った村田清風、彼の成し遂げた偉業は、のちに明治維新へ突き進む大きな原動力となった。/所在地:長門市三隅下2510-1








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